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平成13年(ワ)第2870号、平成14年(ワ)第385号損害磨償請求事件
原  告  ○ ○ ○ ○外62名
被  告  小  泉  純一郎 外1名


                     準備書面(原告ら第8回)

        
                                2003年10月23日
千葉地方裁判所
  民事第5部合議B係  御 中

                          原告ら訴訟代理人弁護士  ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                同           ○  ○  ○  ○
                                                    外10名


(はじめに)
 本準備書面においては、被告小泉の靖国神社参拝により、原告ら各人の被った損害について論述する。しかし、損害の内容、被侵害利益は、戦没者遺族、宗教者、一般市民によっても異なるし、複数の被侵害利益を侵害された者もいる。そこで、以下、戦没者遺族、宗教者、平和を希求する市民の3グループに整理して被った損害の事実を明らかにし、ついで、その法的根拠を明らかにする。
 最後に、被告小泉が今後も靖国神社参拝を継続する意向を持っている事に触れるとともに、同被告の靖国神社参拝が国益を害していることを明らかにする。

第1章 原告らの被った損害

 
 〜略〜




                                             −1−〜−12−
第2章 被侵害利益の法的根拠
第1 不法行為における相関関係説
1 被侵害利益概念

 従来、不法行為の要件の「権利侵害」については、「権利侵害から違法性へ」というスローガンとともに明確な権利侵害でなくても不法行為の要件を満たすことがあるとされ、「違法性」の有無については、侵害行為の悪質性と被侵害利益の種類を乗じて判断するという、いわゆる相関関係説が通説的な地位を占めてきた。
 国家賠償法は明文で「違法性」をその要件として要求しているが、ここにいう「違法性」は、民法不法行為における「権利侵害から違法性へ」という意味での違法性論を取り込んだものと理解されている。
 ところで、本件における侵害行為は、被告小泉の靖国神社参拝という憲法の大原則である政教分離原則に違反する行為であり、かつ、被告小泉は違憲行為についての明確な故意を有しているうえ、被告小泉の靖国参拝は本件請求原因事実に掲げられた事実を含め3回にわたっており、侵害行為の悪質さは極めて強度なものである。
 とすれば、上記「違法性」概念からは、原告らに一定の被侵害利益が認められれば、本件における違法性は明らかであり、被告らは発生した損害について責任を負うことは当然である。
2 被侵害利益としての人格権
 原告らは、訴状において、被侵害利益について、@戦没者遺族たる原告らは「他者からの干渉・介入を受けずに静謐な宗教的或いは非宗教的環境のもとで、肉親の死の意味づけをし、戦没者への思いを巡らせる自由」、A宗教者たる原告らは、「信教の自由」(信仰する自由、布教伝道する自由、自己の信仰に基づいて社会的実践をする自由、自己の信じない宗教を批判する自由、何も信仰しない自由)、B特定の宗教を持たない原告らは、「無宗教ないし無信仰という生活を平穏かつ円満に享受する権利」と主張した。これらの被侵害利益はいずれも原告らの人格と分かちがたく結びついているがゆえに、被告小泉の靖国神社参拝により、原告らの人格が蹂躙され、人格の尊厳をむしり取られた結果、原告らは多大な精神的損害に苦しんでいるのである。
 原告らは、かかる損害の基礎となった被侵害利益につき、憲法前文・9条・13条・19条・20条によって保護された利益であると主張したが、以下、


                                                  −13−
原告らの上記被侵害利益が憲法上保障された自由であること、及び、原告らの人格の核心に分かちがたく結びついていることを詳論するが、まず従来の政教分離裁判でその被侵害利益性が論議されてきたいわゆる「宗教的人格権」について論じ、続いて平和への思いを巡らす自由を論じることとする。

第2 宗教的人格権の侵害
1 宗教的人格権の内容

(1) 宗教的人格権とは
 信教の自由を、強制・禁止からの自由であり、不利益取り扱いからの自由である(以下「狭義の信教の自由」と呼ぶ)とする理解は、今日、世界中で承認され、既に確立された原則である。しかし、個人がある信仰を持ちつつ(また持たずに)、個人の尊厳を確保するためには、国家によってある宗教を強制される、宗教儀式への参加を強制される等の「強制から免れる」だけで十分とは言えない。
 これらを超えて、国家に対して、信仰を個々人の私的・個人的事柄として尊重させなけれぱならない。その一つとして、国家によって一定の宗教的意味づけをされない権利も、宗教的人格権として保障されなけれぱならないのである。
(2) 宗教的人格権が保障されなけれぱならない理由
ア では、なぜにかかる権利が宗教的人格権として保障されなけれぱならないのであろうか。それは以下の理由による。
 宗教とは、「超自然的、超人間的本質の存在を確信し、畏敬崇拝する信条と行為」(津地鎮祭名古屋高裁判決)である。そして、これを信仰する者にとって、畏敬崇拝する対象は自已の存在意義を裏付ける絶対者であり、その教義は単なる「規則」ではなく人生のあらゆる場面で尊重しなければならない行動指針である。すなわち、信仰する者にとって、宗教は、自己の人格の核心を貫く一本の芯であり、かけがえのないものといえる。
 仮に、国家の元首や地方公共団体の長が、特定の宗教儀式に関与したり、これを重んじるような言動を繰り返すことによって、人の死に対して宗教的意味づけをしたり、特定の宗教とその他の宗教とを比較して優劣の評価を加えるようなことがあったとしよう。それは、すなわち、それ以外の全ての宗教に対して優劣の評価を加えた上でこれを否定し、これを信仰する者に対してその信仰と人格を侮蔑する行為にあたる。これによって、他の宗教を人格の核心とする宗教者の人格は否定され、蹂躙されるのである。
イ また、このように、宗教が人格と魂の核心に係わる事柄であること、故に一種の激しさを伴うものであるがために、これを持たない非宗教者にとっては、国家によって意味づけされ、押しつけられることに強い嫌悪感を抱かせるものである。
ウ このように、宗教的な事柄(どのようなものに絶対的な価値観をおき、どのような信条に従って生き、自分の魂はどこに行きつくのか等)は、個人の人格と魂の根元に関わる問題であるが故に、本来個々人が意味づけをし、個


                                                   −14−
々人がその価値を判断すべき事柄といえる。よって、宗教は、高度に個々人の評価と判断に委ねられる事柄であるから、国家が個人の「生」「死」「魂」のあり方に対して宗教的意味づけをしたり、国家が特定の宗教に優劣などの評価を加えたりすることは許されない。
 故に、宗教者にとっても、非宗教者にとっても、国家によって一定の宗教的意味づけをされない権利を、宗教的人格権として保障されなけれぱならない。
2 宗教的人格権の法的根拠
(1) 信教の自由(20条1項前段)
 日本国憲法が規定する信教の自由は、上記の「狭義の信教の自由」だけを内容とするものではなく、前述の「宗教的人格権」も、その信教の自由の一内容として認められると解するべきであることは既に述べた。
(2) 政教分離原則(20条3項)
 憲法20条3項は、国民に対する国の宗教教育、その他の宗教的活動を具体的に禁止しており、その裏返しとして、国による宗教教育、その他の宗教的活動からの自由を人権として保障していると解される。
 これは、例えぱ、憲法21条2項が検閲を禁止しており、その裏返しとして検閲をされない自由を保障していると考えられていること、憲法36条が拷問を禁止しており、その裏返しとして、国による拷問からの自由を保障していると考えられていることからも肯定できる。
 さらに、政教分離原則は、国家の非宗教性・宗教的中立性をうたっている。これは、宗教は私的・個人的事柄であり、国家が宗教的な意味づけや評価をしないということを本質的要素としている。
 したがって、憲法20条3項により保障された前述の自由の内容として、個人は、国の宗教的活動(例えぱ靖国神社への公式参拝)により、自分自身及び肉親や、特定の宗教に対して宗教的意味づけをされない自由、宗教事項に関しては干渉されない自由、すなわち、宗教的人格権があると解するべきである。
(3) 宗教的プライバシー権(13条)
 また、宗教的人格権は、プライバシー権の一つとしても位置づけられる。すなわち、ブライバシー権が認められた背後には、私的領域における自己決定を重視するという時代の潮流がある。そして、私的領域の事柄のうち何を重要と考えるかは個人によって異なるが、人間が精神的存在であることを考えると、精神的事項に対する自已決定は極めて重要といえる。そして精神的事項の中でも、宗教、信仰の問題というのは、人格の核心・人間の魂に関わる問題であり、最も重要かつ高度に私的・個人的事柄といえるからである。
 さらに、日本国憲法の成立に関わる特殊事情も存在する。すなわち、戦前の天皇制の下では、国家が、戦没者の死を天皇のための死と意義付けて、戦没者を祭神として合祀することを強制して、国家が個人の死を管理していた。換言すると、個人が肉親の死について、国家の管理、宗教的意味づけから自由に生きること、個人が、私事として肉親の死を悲しむ自由が否定されてきたのであ


                                                  −15−
る。
 このような歴史を考えれぱ、戦前の国家神道体制を否定し、個人の尊厳を実現しようとした日本国憲法は、「生」や「死」や「魂」について、個人がそれぞれ意味づけて悲しむ権利を持つことを認めていると解すべきである。
 そして、宗教的人格権は、他人から干渉されないで宗教行為を行う自由であるというプライバシー権としての側面を有する以上、他者からの強制・禁止以外の侵害からも保護されるべきである。
(4) まとめ
 以上のように、宗教的人格権は、憲法21条1項前段の信教の自由、20条3項の政教分離規定、13条の幸福追求権(プライバシー権)などによって、三重に根拠づけられる人権であり、法的利益である。
3 下級審判例
(1) 宗教的人格権を否定した下級審判例の理論
 宗教的人格権が主張された過去の訴訟において、下級審の判例は、軒並みこれを否定している。
 例えぱ、中曽根首相の靖国神社参拝違憲訴訟における神戸地裁判決は「原告らの主張する宗教的人格権なるものは、実定法上その根拠を欠いているのみならず、原告らが宗教的人格権等を侵害されたというものの内容とするところは、…本件公式参拝により原告らが抱いた不快感、憤りや怒りあるいは戦前のような国家と神道の結び付きの復活への危倶と言った宗教上の感情に過ぎないものであると認められるが、かかる宗教上の感情は主観的、抽象的なものであって、…明確な法的利益(権利)としては到底認めることのできないものというべきである。」(神戸地姫路支判平2.3.29、訟務月報36.7.1229)と摘示し、この判断は控訴審である大阪高裁判決でも維持されている(大阪高判平5.3.18、判時1457.98)。
 その他の下級審判例においても、宗教的人格権については「主観的」「抽象的」「権利内容が暖昧」等を理由に具体的権利性を否定している。
(2) 宗教的人格権の権利内容は明確である
 しかし、宗教的人格権は、上記のように「国家によって一定の宗教的意味づけをされない権利」であり、明確かつ定義可能な概念である。そして、「宗教的意味づけがなされる」場合というのは、国家元首が特定の宗教施設に参拝したり、地方公共団体の長が特定の宗教儀式を殊更に重要視するような言動を繰り返す等、「国家乃至地方公共団体が、個人の『魂』『生』『死』などの宗教的事項について一定の評価を加えること」と具体的かつ明確に観念できる。
 よって、宗教的人格権は、「権利内容が暖味」でも「抽象的」でもない。
(3) 宗教的人格権を「主観的」なものに過ぎないと言う論理の誤り
ア また、これらの行為によって侵害されるのは、宗教心・信仰心という「魂」のもっとも奥深い部分であり、その人の人格の核心そのものであって、これを傷つけられたことによって生じる心的現象を単なる「宗教上の感情」と切って捨てることの許されない性質のものである。


                                                  −16−
仮に百歩譲って、宗教的人格権を「主観的」な概念と呼ぶことを認めたとしても、それが故に、その法的権利性が否定されるものではない。
 なぜなら、「主観的」であるが故に法的保護に値しないという理論は自明ではなく、「主観的」であるといってもそれは「客観的」にとらえられないものではないからである。すなわち、繰り返し述べるように、信仰とはそもそも個々人の私的・個人的事柄であり、名誉権のように社会的な評価という「客観的」価値に関わるものではない。よって、信仰の自由やプライバシー権等が法的権利である以上、これに連なる宗教的人格権もまた、法的保護に十分値すると言えるのである。
イ また、「主観的」な利益であっても、一般人の感受性を基準に損害が生じるか否かを判断することは可能である。現に、「宴のあと」事件の東京地裁判決は、一般人の感受性を基準にして当該個人の立場に立って耐え難い苦痛を感じると考えられる場合には、プライバシー権の侵害を認めているし、(後述するが)自衛官合祀事件の最高裁判決も、侵害の態様・程度が社会的に許容しうる限度を超える場合には宗教的人格権の侵害となりうると判示している。
4 宗教的人格権と最高裁判例
(1) 国家・私人との関係においては、宗教的人格権は成立する
 では、最高裁判例は、宗教的人格権をどのように評価しているのか。
 自衛官合祀事件最高裁判決については、宗教的人格権を否定したものだという誤った解釈が定着している感がある。
 しかし、判決文を詳細に検討するなら、決してそのような結論にはならない。
 まず、上記最高裁の射程範囲は、以下のように限定されている。
 「…また、合祀それ自体は県護国神社によってなされているのであるから、法的利益の侵害の成否は、同神社と被上告人の間の私法上の関係として検討すべきこととなる。」とした上で、「…信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰を持つ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。」
 すなわち、最高裁の判決は、事案を私人間の問題として考え、その範囲で判断を示したものであり、本件訴訟のように国家と国民との間で宗教的人格権の存否が問題となった事案を念頭に置いたものではない。よって、国家と私人との間においては、宗教的人格権の侵害が生じうることを認めた判例であるとの評価も十分に可能である。
(2) 宗教的人格権が侵害される場合を認めている
 さらに、判例は、一定の場合に宗教的人格権の侵害を認めている。
 すなわち、
 『…宗教的人格権の侵害については、死去した配偶者の追慕・慰霊などに関し、他人がした宗教上の行為によって信仰生活の静謐さが害されたとしても、それが信教の自由の侵害に当たり、その態様・程度が社会的に許容しうる


                                                  −17−
限度を超える場合でない限り、法的利益が侵害されたとはいえないとする。よって、死去した配偶者の追慕・慰霊等に関して、私人(県護国神社)がした宗教上の行為により信仰生活の静謐が害されたとしても、それが信教の自由の侵害に当たり、その態様・程度が社会的に許容しうる限度を超える場合でない限り、法的利益が侵害されたとはいえない。」
と述べている。
 つまり、判例は、宗教的人格権が否定される場合を「その態様・程度が社会的に許容しうる限度を超える場合でない限り」と限定し、逆に「その態様・程度が社会的に許容しうる限度を超える場合」には、法的利益の侵害を認め、その前提として宗教的人格権の存在を認めたものと評価できる。
(3) まとめ
 つまり、上記最高裁判例は、国家と私人の間においては宗教的人格権が成立する余地があることを示したものであると同時に、私人間であっても社会的に許容しうる限度を超える場合には宗教的人格権の侵害となりうることを認めたもの(本件のように国家と私人の間においてはより緩やかな基準で侵害が認められよう)である。
 よって、本件被告らの参拝が、原告らの宗教的人格権を侵害するという主張を妨げるものでもない。
5 小括
 以上のように、国家によって一定の宗教的意味づけをされない権利は、20条1項前段及び3項ないし13条によって、保障された人権(法的利益)であり、これに対する侵害は当然に損害賠償の対象になる。

第3 平和への思いを巡らす自由の侵害
1 総論

 被告小泉の靖国神社参拝によって、原告らは、「平和への思いをめぐらす権利・自由」を侵害された。
 この権利は、悲惨なアジア・太平洋戦争を経験し、その反省に立って戦争を放棄し平和主義に立つことを憲法上定めた日本の国民にとっては、戦争の記憶と反省とに結びつき、あまねく共有されており、日本国民の人格の形成にとって必要不可欠のものとなっている。
2 平和憲法から導かれる平和への思いを巡らす自由
(1) 「平和への思いを巡らす自由」の根拠
 この権利の根拠は、憲法第13条、第19条、前文第2段および第9条に求められる。
 そもそも、憲法は、前文第2段や第9条において、戦争の放棄を命じ、武力の行使や武力による威嚇を禁止し、一切の戦力の不保持を宣言するという徹底した平和主義を貫いている。この平和憲法の存在によって、戦後日本は、東西冷戦時代にあっても、まがりなりにも他国への侵略に直接的に加担することなく、また、他国からの侵略も受けることなく過ごすことができた。


                                                  −18−
このように平和主義の理念のもとで生活をしてきた戦後の日本人の多くは、平和が人格的生存に不可欠の前提であること、平和に対して自由に思いを巡らせ、戦争や抑圧を回避すべきであることを日々の生活の中で実感し、自己の人格を形成するにあたって大きくこの平和主義を取り入れてきたといえるのである。
 ところで、憲法13条は、憲法の究極の理念である「個人の尊厳」を謳うとともに、個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利を包括的に定めていると解されているところ、この13条を上記平和主義(前文第2段、第9条)の観点からとらえなけれぱならない。
 そして、戦後60年近くにわたって憲法の平和主義が日本外交を一定程度規律してきたこと、そしてこの平和主義を多くの日本国民が自己の人格形成の上で根本から取り入れている状況からすると、「平和への思いを巡らす自由」は、この憲法13条で定める自己の人格的生存に不可欠な人権の一つとして確立していると言うべきである。そもそも、平和という状態がまず平和を希求する市民の強い思いを契機として実現されることに鑑みれぱ、これを憲法上の個人の権利として保障することなくして、憲法上の重要な原則とされている平和主義の理念の実現はありえない。
 また、当然ながら、平和への思いを巡らす精神作用は、思想・信条の一つに含まれていることから、憲法19条においても保障されているといえるのである。
(2) 「平和への思いを巡らす自由」の性質
 戦後の日本は、アジア民衆への侵略戦争であったアジア・太平洋戦争を反省し、二度と侵略戦争を行なわないと誓い、平和主義を標榜してきた。そのような状況下で、前述したとおり、日本国民は、みずからの人格形成の上で、憲法の定める平和主義の理念を取り入れているといえる。
 特に、平和憲法の理念を生活のうえで実践に移している者、平和憲法を誇りに思い人格の中核部分にすえている人物は、平和の問題が個人の尊厳(13条)に直結しているだけに、平和を危うくする政府の言動には極めて敏感に反応する。必ずしも平和憲法の理念が十分に活かされてはおらず、むしろ徐々になし崩し的に軍国主義化が進んでいるのではないかという危機感もあって、神経は極めて鋭敏となっている。このことは、第1章で取り上げた原告ら一人一人の言葉を見ても明白である。「戦争は絶対に起こしてはならない」「戦争遂行の兆候を見過ごしてはならない」という強い信念の下に生きている人々にとって、平和主義原則に違反する国家機関の言動は、決して容認できるものではなく、常に満腔の怒りをもってとらえられるのである。
 今回、被告小泉の靖国神社参拝は、後述するように日本を再び戦争国家、軍事国家に仕立て上げていく地ならしとしての意味がある。かつての軍国主義の精神的支柱であった靖国神社を殊更に厚遇し、そこに祀られている「英霊」を称揚することは、平和を真剣に希求する原告らの平和への思いを巡らす自由を踏みにじる行為に他ならないのである。

                                                  −19−
このような平和を踏みにじるような政府の言動によって,原告らは,個人としての尊厳を著しく傷つけられてしまった。平和への思いを巡らす自由はそれぞれの人格に密接に関わり、人生観そのものを構成することから,これを否定されたときの衝撃は非常こ大きく、平和への思いを巡らす自由・権利は,壊れやすくもろい自由・権利であるといわねぱならない。
 例えていえぱ、音楽家は音楽を愛し、音楽が自已の尊厳に不可欠に結びついていることから、自らの目の前で楽器が無残に壊されてしまう様を見たとすれば、音楽を否定されたという衝撃から、精神的なダメージを受けてしまう。また、画家は絵画を愛し、絵画が自己の尊厳に不可欠に結びついていることから,自らの目の前で絵画が無残に壊されてしまう様を見たとすれば,絵画を否定されたという衝撃から、精神的なダメージを受けてしまう。
 同様に、平和を希求する市民にとっては,靖国神社参拝という行為を通じて,政府が平和をなし崩しにしているさまを見ると,心の奥底から強い憤りを感じるとともに、自らの生きる基盤となっていた平和主義を否定された衝撃を受け,精神的な苦痛を味わうのである。
 そして、この平和への思いをめぐらす自由がいったん抑圧・弾圧されてしまった社会においては,事後的な修復はほとんど困難となってしまう。このことは戦前の日本において,平和を希求する市民が抑圧・弾圧を受け,結局「平和への思いを巡らす自由」は日本の敗戦まで日の目を見ることができなかったことに端的に示されている。さらに、このような弾圧によって一人一人の内面が徹底的に破壊されてしまうことから、幸い社会において平和への思いを巡らす自由が回復されたとしても,弾圧を受けた個人の内面はもう元には戻らない。
 このように壊れやすくもろい権利,事後的な救済が困難な権利であるがために、より一層保護を厚くする必要がある。司法機関による積極的な判断を仰ぎ,迅速かつ適正な保護を求めるゆえんである。
(3) 平和への思いを巡らす態様
 この平和への思いを巡らす態様については,後述するように,ある者は,自らの戦争体験や戦没者遺族の思い出を通じて戦争の悲惨さを思い返し,平和の重要性を再認識するのであろうし、またある者は,平和憲法への誇りを胸に平和主義を守り続ける決意をもつのであろう。しかし,いずれにせよ,国家に束縛,強制されず、平和を希求する心情を有している。
(4) 裁判例の評価
 なお、東京地方裁判所は、市民平和訴訟において,「個人の内心的な感情も,それが害されることによる精神的な苦痛が社会通念上受認すべき限度を超える」(平成8年5月10日、判時1579号62頁,判夕916号59頁)として、内心の感情について法律上保護の対象となることを明確に理論上認めている。
 これまで見てきたとおり、「平和への思いを巡らす自由」は,戦後の平和主義の理念の下に育った平和を愛する市民にとっては人格に密接に結びついた権


                                                  −20−
利であり、これを公権力の行使によって蹂躙された場合には、著しい精神的苦痛がもたらされることは明らかであるといえ、上記裁判例の内容からしても、人格的な利益として保護されるのである。
 また、判例は「平和的生存権」については消極的であるとされているが、本件で請求している「平和への思いを巡らす自由」は、国家に政策や作為を求める性質のものではなく、個人の自由権の保障を求めているに過ぎず、平和的生存権についての判例の射程は及ぱないと解すべきである。
3 権利の特質
(1) 戦争体験や戦没者への思いと密接に結びついている権利
 本件訴訟においては、戦没者遺族や戦争体験者が原告となっている。
 戦没者遺族は、肉親との生活を政府による徴兵・徴用によって壊されてしまい、その肉親は心ならずも侵略戦争に加担させられてしまった。その後、肉親との音信不通が続いたかと思うと、極めて暖昧な情報で戦死を告げられ、そして遺族への事前の通知も同意も経ることなく勝手に靖国神社に合祀されていたのである。
 また、直接戦争を体験した原告は、空襲に日々おびえ、困窮した生活の中で、ある者は肉親と生き別れ、ある者は戦争によって直接の被害を被っているのである。
 彼ら原告は、それぞれ悲惨で労苦に満ちた体験を経ている分、それだけ強固に戦争を憎み、平和を希求している。二度と戦争を起こしてはならない、自分が戦時中に体験した悲惨さを将来の子供たちには味わわせたくない、という強い信念をみな共有している。それゆえ、日本国憲法の前文や第9条で謳われている平和主義について、誇りと感じているのである。この憲法の条項を守り続け、高く掲げていくことこそ、戦争を知る者としての責務であるとも感じているのである。彼ら原告が、平和について思いを巡らせるとき、ふつふつと、この戦争体験に基づく静かな反省と決意がこみ上げてくる。彼ら原告にとっては、平和への思いは、人格の中核を構成しているのである。
 このような原告たちにとっては、被告小泉による靖国神社への参拝は、平和を希求する心情をまさに逆撫でする行為に他ならないのである。戦前の軍国主義の精神的支柱であった靖国神社に公人が参拝するという行為は、先の戦争について国家が何ら反省せず、むしろ肯定・賛美していることを示すものであって、原告らの戦争に対する評価と真っ向から対立するものである。
(2) 憲法の定める平和主義と結びつき、人格の中核を形成する権利
 また、特段戦争体験のない者、戦没者の遺族ではない者であっても、そのような体験を持つ者に負けず劣らず強烈に平和を希求する市民も多数存在しており、本件訴訟の原告となっている。
 日本は、前述したとおり、アジアの民衆を苦しめた侵略戦争を反省し、二度と戦争は行なわないと謳った平和憲法を制定した。この規程は、日本国の平和擁護義務や戦争回避義務を定めたものであるとともに、国民の側から見れば、国民が生まれながらにして一人一人が平和のうちに生活し、平和を希求する心


                                                 −21−
情を持つ権利を定めたものであるといえるのである。
 戦後の平和憲法の下で平和教育を受けた日本の市民にとっては、幼年時から戦争の悲惨さを教わり、紛争の平和的な解決こそ人類の叡智であると学んできた。したがって、自己の人格形成の上で、平和主義は中核をなす部分となっているのである。原告らの多くは、現在の日本国憲法の前文や第9条に掲げられた平和主義を誇りに思い、その実現のために尽力しているものぱかりである。
4 侵害され続けてきた「平和への思いを巡らす自由」の回復を
 平和への思いを巡らす自由については、これまでの日本や世界の歴史を振り返ってみれぱ分かるとおり、国家の誤った政策によって容易に傷つけられてきた。特に戦前の日本において、戦争に反対し、平和を希求する市民は、ことごとく弾圧されてきた。この反省に立って現在の日本国憲法において徹底した平和主義が定められており、平和のうちに生きる権利の一内容として、平和への思いを巡らす自由を定めているのである。
 ところが、戦後、政府は一貫してこの平和主義をなし崩しにしてきている。平和を望む多くの国民の意思に反して、政府は、日米軍事同盟(日米安全保障条約)の締結、自衛隊の創設、朝鮮戦争への軍事協力、自衛隊の海外派兵など、対外戦争への戦費支出など、さまざまな形で平和憲法の理念に反する法制度を整備してきたのであった。
 そして、この権利侵害を決定的にしたのが、今回の被告小泉の靖国神社参拝であった。これまでは、法律の制定や対外的な政策というかたちで、いわぱ間接的に原告らの平和への思いを巡らす自由を侵害してきたのであるが、今回の被告小泉の靖国神社参拝は、直接的に原告らの内面を侵害してきたといえるからである。特に、前述した平和憲法の理念を生活のうえで実践に移している者、平和憲法を誇りに思い人格の中核部分にすえている人物にとっては、自分自身の生き様、人生の意義を否定された思いがするのである。
 日本の戦前の歴史を見れぱ分かるとおり、戦争遂行のためには、単に法制度を整備するだけでは足りず、戦争を担う国民の意識自体を国家が統率・管理する必要があるが、まさに今回の被告小泉の靖国神社参拝は、国民全体にかつての軍国主義の思想を受け入れさせる具体策のひとつと見ることができる。このことは、その後、被告小泉が靖国神社参拝を繰り返し、平和憲法を改悪しようと策動していることからも明らかである。
 日本を代表する首相が靖国神社に参拝することで、平和社会が危機的な状況にさらされた、平和を希求する多くの原告はこのように感じている。日本において、平和への思いを巡らす自由は、まさに危機に瀕している。
 そもそも、平和への思いを巡らす自由は、物質的なものでは穴埋めできず、またいったん壊されてしまった場合には事後的に修復が極めて困難であるという意味で、壊れやすく傷つきやすい権利と言わねぱならない。だからこそ、人格権の一部をなす権利として憲法13条で保障するとともに、司法審査において、手厚い保護を受けるべきなのである。事後的な救済では回復困難な権利であるからこそ、裁判所による積極的な審査によって被告らの違憲・違法性を断


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ずる必要性が高いといえる。

第4 被告小泉の靖国神社参拝継続の意思
 本年10月7日、インドネシアのバリ島で行われた日中首脳会談において、中国の温家宝首相は、日中両国首脳の相互訪問再開の前提として「正しく歴史に対処することは重要だ」と述べた。この発言は小泉首相の靖国神社参拝の中止を求めていることは明かである。それは、小泉首相が就任直後の2001年8月13日に靖国神社参拝を行ったことに対して中国首脳が度重ねて不快の念、遺憾の意を示して参拝中止を求めてきたこと、その後の2度の靖国神社参拝に対してもその都度抗議の意思を表明してきたこと、靖国神社参拝以後、両国首脳の相互訪問が途絶えていることからも裏付けられることである。しかし、小泉首相は記者団に対して、今後も年1回の靖国神社参拝は続ける事を明言している。
 現在のアジアを取り巻く政治状況を見ると、北朝鮮の核開発疑惑、拉致問題などの解決のために日中両国の緊密且つ良好な協力関係を築くことは不可欠であるにもかかわらず、小泉首相の靖国神社参拝によって両国の関係が阻害されているのである。小泉首相の靖国神社参拝は、国内における憲法違反だけでは済まされない外交問題になっており、まさに日本の国益をも害しているのである。
 今後も毎年靖国神社参拝を繰り返すということを公言してはぱからない小泉首相の愚行を是正するのは、司法の役割であり、裁判所は憲法の政教分離原則に従った明確な判断をなすべきことが求められている。
                                                 以上

















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